音速の貴公子と呼ばれたアイルトン・セナの言葉から、生き方を学ぶ
アイルトン・セナは常に先頭をいく白と赤の色をしたF1マシンに乗っていました。テレビ中継などで一度は観たことありますよね。コーナーリングは他のどの車よりスムーズで、ストレートは加速がよくて、そして強いF1ドライバーです。 34歳という短い生涯の中でも彼は数々の名言を残しています。音速の貴公子と呼ばれた伝説のドライバーの生涯や言葉からその生き方の秘訣を学んでいきましょう。アイルトン・セナ〜音速の貴公子〜
アイルトン・セナを「音速の貴公子」と呼んだのは、当時のF1レースの実況をしていた古舘伊知郎氏からです。彼の異名は他にもありますが、一番これがポピュラーで、その「音速の貴公子」アイルトン・セナという名前は、F1を知らない人でも聞いたことあるぐらい有名です。 おそらく画像を見れば知らない人でも「知っている」となることでしょう。また40代50代の方でセナのファンの方はSNSの画像に使っているなど、今でもF1の世界では彼は伝説のドライバーとして、語り継がれています。アイルトン・セナの生涯
誕生〜幼少期
1960年3月21日、ブラジルのサンパウロで生まれました。比較的裕福な家で広大な土地や家業で自動車修理などを行っていた環境もあり、車に興味を強く抱く少年に。4歳のときに父親よりレーシングカートが贈られ、セナ少年は夢中になって自宅敷地の中を走り回っていたとか。 その興味心は収まることなく、家の敷地で壊れた車なども乗りこなすようになります。やがて本格的にレースに出てみたいという感情が彼の中に芽生えてきました。カートレースをはじめる
13歳になった彼は母国ブラジルを中心に行っているカートレースに出ることに。持ち前の探求心や負けん気の強さからメキメキ腕を上げていきます。やがて1977年(セナ17歳)で南アメリカ選手権を制すまでに。 その後より高いレベルと戦いたいと自身でイタリアのカートメーカーと契約を結び、ヨーロッパの世界選手権へと出場。優勝こそはできませんでしたが、この頃から彼の中でF1に行きたいという思いがさらに強くなり、世界のカートレース大会出場と自分自身で費用を貯めるなどの活動を行います。F1レーサーの道へ進む
同時に1981年からフォーミュラーフォード(ヨーロッパのカテゴリー下のレース)に出場、家族とのいざこざなどがありましたが、それを乗り越えてチャンピオンに輝きます。 1983年にF3(F1より2個下のカテゴリー)に参戦、開幕戦から勝ちまくり9連勝、最終的な成績は20戦12勝という成績で文句なしのチャンピオンに。特に彼が記録したタイムは凄く、この成績がF1関係者の目に止まりF2(現在のF3000)を飛び越し、念願のF1レーサーになります。ちなみにこのF3時代にホンダのエンジンのマシンに乗り、その性能からこのメーカーに一目置くようになりました。トールマン&ロータス時代
- 1984年 トールマン・ハート 2位1回、ドライバーズポイント13pt(ランキング9位)
- 1985年 ロータス・ルノー 1位2回、ドライバーズポイント38pt(ランキング4位)
- 1986年 ロータス・ルノー 1位2回、ドライバーズポイント55pt(ランキング4位)
- 1887年 ロータス・ホンダ 1位2回、ドライバーズポイント57pt(ランキング3位)
マクラーレンとの出会い
着実にF1ドライバーとしてステップアップしているセナですが、ついにあの伝説のマシンを手に入れます。それがこのマクラーレンとの出会い、ロン・デニス、アラン・プロスト、ゲルハルト・ベルガーらと共に一時代を築きます。簡単にセナの1988年〜1991年までの成績を確認しておきましょう。- 1988年 マクラーレン・ホンダ 1位8回 ドライバーズポイント94pt(1位)
- 1989年 マクラーレン・ホンダ 1位6回 ドライバーズポイント60pt(2位)
- 1990年 マクラーレン・ホンダ 1位6回 ドライバーズポイント78pt(1位)
- 1991年 マクラーレン・ホンダ 1位7回 ドライバーズポイント96pt(1位)
マクラーレンホンダとは
イギリスの名門マクラーレン、ボディの空力や作りなどの性能には定評があったが、1987年はエンジンメーカーとしてホンダを希望するも、断られ別のエンジンを使いますが、エンジンとのバランスが悪いため、同年は低迷します。 丁度時期的にはターボエンジンの規制が始まっていた頃です。ホンダはこの規制を逆手にとり、低燃費エンジンの開発技術から応用し、F1仕様への開発に成功しました。これを翌年マクラーレンとロータスに供給します。 そしてマクラーレンはアイルトン・セナの加入と共に、ホンダのエンジンに絶妙にマッチする新型マシンMP4/4を開発、1988年には全16戦中15勝をあげます。その後4年チームは黄金期を迎えます。 翌1989年には新型マシンMP4/5を擁し、プロストが年間チャンピオンに、チームのコンストラクターズポイント(チームのポイント)も圧倒的な差で勝ちます。しかしチームやセナとの遺恨により、プロストがこの年マクラーレンから離れることに。 1990年、91年にはセナが年間チャンピオンにコンストラクターズポイントはフェラーリやウィリアムズに追われるも勝ちました。 1992年になるとウィリアムズが性能の高いマシンを開発。熾烈な争いが繰り広げられます。同年ホンダの経営戦略変更によりエンジン供給から撤退し、パートナーシップはそこで打ち切られます。数々の伝説
モナコで6V「モナコマイスター」
F1でのセナの市街地コースの腕は卓越していました。特に得意だったのがモナコGP、F1初年度の明らかにレベルが低いマシンでの快走などを含め、合計で6勝しています。モナコは非常にテクニカルなコースで、抜きどころはピットのタイミングぐらいしかありません。 またコーナーも多く、非常にF1マシンにとっては過酷なこともあり、完走できることでも名誉なことだといわれています。マシンのトラブルなどによるストップなどは当たり前、運も味方につけないといけません。 しかしセナの場合は運というよりもドライビングテクニックが卓越していたといえます。小刻みなブレーキやアクセルさばきが得意だったセナ、コーナーもただ減速して曲がるという他のドライバーと違い、モーターの回転数を調整しながら、場合によってはギアとアクセルの調整などで曲がっていたので、他の車とはコーナーの立ち上がりが違ったといわれています。 関係者の間ではこのテクニックを通称セナステップといわれています。他のドライバーと明らかに違うラップを予選からたたき出せるのは、こういった細かなテクニックにセナが優れていたということです。1992年、セナVSマンセル
セナのライバルといえばアラン・プロストなどの名前があがりますが、この1992年のナイジェル・マンセルとの争いも目が離せなかったもので、今でも名勝負として語り継がれています。 正直1992年になってからエンジンやドライバーの技術というより、マシンのハイテク化が急速に進んできてしまいます。同年は開幕戦からウィリアムズのマンセルが絶好調でした。マンセル5連勝で迎えたモナコGP、レース展開は、終始マンセル優位でセナが2位を走っていました。しかしマンセルがホイールのトラブルでピットイン、セナの後方約5秒後でピットを出ます。 このときのマシンの性能は明らかにウィリアムズのFW14Bの方が上でした。次々にファステストラップをたたき出し追い上げるマンセル、逃げるセナ、テールトゥーノーズに差が縮まり、誰しもモナコといえどもセナが抜かれるのは時間の問題と思ったときです。マンセルは何故か抜けないのです。決して彼が悪いドライビングをしている訳でもありません。でもセナを抜けません。この辺りのマシンの操作性はセナの方が一枚上手でした。 結局チェッカーフラッグはセナに、マシンから降りたマンセルは疲れ果てて座り込むように肩を落としました。マスコミはセナが何かフェアではない行為をしているのではと、レース後マンセルに質問すると彼は一言「彼(セナ)はフェアだった」とお互いを認め合っているライバル同士のよい勝負でした。 このレースについてはF1名シーンと検索するといまだに上位にくるレースです。結局のところ1992年はセナは少しハイテク車化の波に乗り遅れたようでした。雨でのレースが得意「レインマスター」
セナの伝説というととにかく雨が降ると強いというイメージがあります。この件についてセナ本人は得意だとは必ずしも思っていなかったようです。しかし、独特のマシンコントロールで滑る路面でも絶妙なバランスをとることに関しては非常に得意だったのではないでしょうか。 セナは小さいときカートで雨が降ってスリップして大敗をしました。すると彼は次の日に練習場に水を撒き、そのスリッピーな路面でカートの練習をしていました。このことが微妙なステップが生まれた要因でもあります。F1になってもおそらくテスト走行などで、雨天時を嫌がらずに走っていたのではと容易に推測できます。 F1、2年目の2勝などもあるように他のドライバーには無い一面を彼は持っていたといえます。それが彼をNO.1ドライバーとして認識されている大きな要因の一つです。鈴鹿サーキットでの活躍
セナといえば、モナコの次に鈴鹿というようなF1ファンも多いでしょう。特に1988年〜1991年では鈴鹿で年間チャンピオンが決まっています。よいところも悪いところもあり、非常に印象が残っているのでは。セナの年間チャンピオンが決まった瞬間を中心にピックアップします。 1988年(14位からの大逆転劇)この日の鈴鹿のポールポジションのセナはスタートに失敗し、第一コーナーでは14位、この試合は年間チャンピオンがかかっているレースでした。しかし少し雨模様になり、セナの得意なレインコンディションの中、どんどん抜いていきます。 ついにトップを走っているプロストを捉え、優勝。初の年間チャンピオンを決定しました。ウイニングランのときには雨はやみ、かわりに虹が新しいチャンピオンを祝福。 1990年(セナプロ対決再び、僅か100mの悲鳴とため息の決着)この前年はプロストとセナが鈴鹿で接触し、プロストが結局、年間王者を決めたという遺恨の第2ラウンド、ポールポジションはセナ、2位プロスト、スタートはプロストが少しよい、両者第一コーナーへ、そのときセナは譲らず接触、2台はもつれるようにしてコースアウト、歓声が悲鳴とため息に変わった瞬間です。 この瞬間に年間王者が決まり、わずか100mだけで、セナです。したがってこのセナの行為には、賛否両論今でも分かれています。 1991年(セナ・ベルガーに感謝のプレゼント)この年はポールポジションがセナのチームメイトのゲルハルト・ベルガー、2番手スタートがセナ、3番手はセナと年間チャンピオンを争っているマンセルでした。それぞれよいスタートを決め、2番手のセナはマンセルをおさえながらレースを運んできます。 年間チャンピオンはあっけなく決まり、マンセルがリタイヤしました。その後ベルガーを抜いたセナ、このままセナの勝ちだと解ったファイナルラップになんとスローダウンして、ベルガーに道を譲ります。これはセカンドドライバーとして一年戦ってくれたベルガーへの感謝の証です。 この3レース以外にも鈴鹿とセナには深い繋がりがあります。特に年間チャンピオンを決めた試合とホンダのホームレースです。セナにとっても鈴鹿は特別なレースであったことは間違いありません。ホンダの撤退後ウィリアムズへ
1992年シーズンでマクラーレンからホンダが撤退します。その後一年移籍をとどまっていたセナですが、1994年に低迷するマクラーレンに別れを告げ、ウィリアムズへと移籍します。今考えるとこの判断が早かったのか遅かったのか非常に迷うところです。 1994年のウィリアムズ移籍当時、丁度前年に引退したマンセルが使っていたマシンの仕様をそのまま受け継ぐことになります。マンセルとはよきライバルでもあり、この移籍はセナの復活だと「あの日」が来るまでは、誰しも信じていました。アイルトン・セナの死
1994年シーズン期待されてウィリアムズに移籍したセナ、しかし2戦続けてリタイヤと調子がでません。マシンはその年から大幅にルールが変わり、かなりの混乱があるだけだと多くの専門家などはいっていました。しかし3戦目のサンマリノ、ついに「あの日」が訪れてしまいます。命日となった日
サンマリノグランプリの行われるイモラサーキットは異様な雰囲気で週末を向かえます。道行く誰もが口数が少なく、ドライバー達は非常にナーバスになっていました。それもそのはず連日のクラッシュに死亡事故までも起こったからです。 一人目の犠牲者はルーベンス・バリチェロ、金曜日の予選走行中にコースアウトし、クラッシュ。そのまま病院に運ばれます。(命は無事、怪我の具合も結局は大したことはなかったです。)土曜日にはローランド・ラッツェンバーガーが予選アタック中にクラッシュし、その後死亡しました。 セナも他のドライバーと一緒に不安になっていました。なぜならマシンになんとなくの不安を感じていたからです。恋人に「走りたくない」などと前日に電話をしていたことが語られています。それでも決勝に出ることにしたセナ、もう時計は「あの日」に向かって動いています。 「あの日」1994年5月1日、レースは7週目後続車のトラブルにより、セーフティーカーが抜けたあとでした。先頭を走るセナ、イモラ名物の高速コーナーにさしかかったとき、マシンはコントロールを失い、そのままコースアウト、右前にあるコンクリートに衝突、マシンは大破し、セナは意識不明のまま緊急搬送、34歳で帰らない人となりました。原因不明の事故死
セナの車は300キロ近い速度が出ているときに、コントロールを失いコースアウトしています。セナの死因はステアリングシャフトが貫通し、脳を損傷したとのことですが、そのコントロールを失った原因についてはいまだにハッキリと解ってはいません。大抵ハッキリと原因がわからないときというのは、複合的な要因が絡んでいます。- グリップを失った:直前のセーフティーカーによりタイヤの熱が無くなりグリップを失ったことです。通常F1のタイヤは熱で溶けながらグリップしているので、この原因が考えられます。
- コースに何かあった:前日、前々日にクラッシュしていることから、コース自体に問題があった可能性もあります。これは専門家の間でもよく言われていました。
- 車に何かあった:当時セナは乗っていた車に不安を抱えていたといいます。事故後にブラックボックスが回収されていることからこの説も否定はできません。ただ故障という感じではなく、少しの不具合とそれの調整が重なり、事故に至ったと考えることも。
- コースのギリギリのラインを狙っている:セナのドライビングは常にアグレッシブでコンマ1秒を出すためにコースアウトギリギリのラインを通ることからやはり危険なゾーンに車が入ってしまったのでは。