ミケーレ・アルボレートの人物像を知って、F1をもっと楽しもう

ミケーレ・アルボレートの人物像を知って、F1をもっと楽しもう

2018.04.02

F1四天王達と同世代であるがあまり耳にしないこの人物。知っている人はかなりのF1マニアです。ミケーレ・アルボレートは1981年にティレル・フォードでF1デビュー。194戦に出場、優勝5回の成績を残したがテスト走行中に事故死しています。

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ミケーレ・アルボレートを知ろう

F1は、チームやドライバーを調べているとどんどんつながって聞いたこともなかったワードを耳にします。 大好きなチームのフェラーリについて調べていると、アラン・プロストと優勝争いを繰り広げたというミケーレ・アルボレートなる人物に辿り着いてしまったが、でも情報が少なすぎる。 この記事ではそんなあなたのためにミケーレ・アルボレートという人物について掘り下げていきます。

ミケーレ・アルボレートの人物像

義理堅い人物であった

ミケーレ・アルボレートは非常に義理堅いことで有名です。一説によるとボロボロのホテルへ食事に入るところが目撃されています。実はこのホテルの女性オーナーと親しく、たびたび食事に通っていました。 F1ドライバーといえば派手にお金を使うイメージがつきまといますが、ミケーレ・アルボレートらしい義理堅さを垣間見ることができる逸話です。また晩年には故郷イタリアのチームから参戦したいと語り、実際にイタリアのチームであるミナルディでF1人生を終えています。

趣味はF1をドライブすること

趣味は「F1をドライブすること」と公言するほどF1を愛し、レーシングを心から楽しんでいました。事実、低迷し続けるチームで不遇にあっても走り続け、走っている間は明るさは失わず、ローラがインディで好走しているのに自身の乗るローラ製シャシーがF1で低迷しているのを「僕はもうインディドライバーと言われているよ」とジョーク交じりに言っています。 ある雑誌のインタビューでは「走り続けるのはお金のためじゃない。お金なら十分稼いだし、そこに喜びを感じるからだ。3カ月もマシンに乗らなかったら檻に閉じ込められたライオンみたいになってしまうだろう」と答えています。

ミケーレ・アルボレートのヘルメット

愛用していたヘルメットは青地に太い黄色の一本輪でした。目立つデザインではありませんでしたが、彼なりのこだわりがあります。尊敬するF1ドライバー、ロニー・ピーターソンのヘルメットカラーをモチーフにしたデザインでした。 青と黄色の配色はロニー・ピーターソンの故郷スウェーデンの国旗がもととなっています。イタリア人であるミケーレ・アルボレートは、他国旗の配色であるにもかかわらずそのデザインを採用していました。また、ピータソンと同型のひさし付のヘルメットを使用したこともあります。

事故死している

ミケーレ・アルボレートは2001年4月25日に44歳でこの世を去っています。ドイツ東部のラウジッツリンクサーキットで南カーブのブレーキングポイントに差し掛かったところでマシンがコントロール不能に。車体はコースを外れて転倒。コース脇のバリアに接触して停止し、即座に救助されましたが即死でした。 その後の調査で、左リアタイヤのスローパンクが原因だったと判明。第69回ル・マン24時間耐久レースを控えたアウディ・R8のテスト走行中のことで、予定通りに行けばアウディで8度目のル・マン出場となるはずでした。存命ならば2018年で62歳を迎えています。

ミケーレ・アルボレートの経歴

ティレルでF1デビュー

1978年よりイタリアF3へ参戦。1980年にはヨーロッパF3でチャンピオンを獲得しました。翌年の1981年満を持してティレル・フォードからF1デビューを果たします。サンマリノGPが記念すべきデビュー戦となりました。予選こそ突破したものの決勝では残念ながらリタイヤに終わっています。 その後もデビュー年にポイントを獲得することはありませんでしたが、1982年の活躍は凄まじかった。第2戦のブラジルGPで4位に入り入賞を果たすと続く第3戦、第4戦にも連続で入賞しました。第4戦には初表彰台を達成しています。その年の最終戦のラスベガスGPでは初優勝も果たしました。

フェラーリのエースドライバー

ティレル・フォードでの成績を認められ、1984年にはフェラーリにチームのエースドライバーとして迎えられました。特に世界一とも言われるそのシフトチェンジテクニックが注目されてのことです。エンツォ・フェラーリはミケーレ・アルボレートを「私がフェラーリにふさわしいと思うドライバーだ」と語っています。 移籍年に開催された第3戦のベルギーGPで初のポールポジションを獲得すると、決勝では他の追随を許さない走りで優勝しました。この年は16戦中8回のリタイヤをしていますが、6度の入賞も記録しています。 1985年にはアラン・プロストとチャンピオン争いを繰り広げました。第9戦のドイツGPでシーズン2勝目を挙げるとランキングトップに躍り出ます。しかし、その後の第11戦オランダGPでアラン・プロストに逆転を許してしまいました。 結局その後は成績が乱れてチャンピオンを獲得するには至りませんでしたが、この活躍により名ドライバーのアルベルト・アスカリの再来と呼ばれ、ティフォシと呼ばれる熱烈なファンから愛されました。

ティレルへの復帰

1985年にはマクラーレン・ホンダのアラン・プロストとチャンピオン争いを繰り広げましたが、その年以降はチームの低迷期に入り自身も低迷しています。 そんな中デザイナーのジョン・バーナードとの対立が深刻化し、フェラーリを去ることになります。セミオートマチックトランスミッションをめぐっての大喧嘩が発端でした。 そして1989年に古巣のティレルに6年ぶりの復帰を果たします。決して良い条件ではありませんでした。契約金などはなく、マールボロからの支援と獲得賞金の何パーセントかが入るだけでした。その年はモナコGPで5位入賞、メキシコGPでは3位と表彰台に乗り、まずまずの戦績だった。 その頃と同時期にベネトンからオファーを受けています。しかし交渉は難航し、更にその交渉が外部に漏れて結局ティレルのシートも失うことになっています。

フットワークへ加入する

前年に不安定な状況にあったミケーレ・アルボレートは、1990年には状況を脱するべく中堅チームであったフットワーク・アロウズと契約。しかし搭載するエンジンの非力さに泣き、その年は2度の完走を果たすのみとなりました。 1992年にチームは無限ホンダエンジンを搭載。チームメイトの鈴木亜久里がリタイヤや予選落ちを繰り返す中、全16戦中14戦を完走し、4度の入賞を果たしています。 にもかかわらずシーズン終了後チームは鈴木亜久里よりも成績がよかったミケーレ・アルボレートを放出しました。当時のオーナーである大橋渡が鈴木亜久里を押していたためで、不運としか言いようがなかった。

引退へ

1993年には前年の実績からスクーデリア・イタリアと契約を結びます。しかしこの年から同チームはローラ製シャシーを使用。これが予選通過も難しくしました。フェラーリエンジンとの相性も最悪でした。結局5回の予選落ちを喫し入賞はありませんでした。 終盤には2戦を残してチームが撤退することとなっています。翌年1994年にはベネトンのシートを獲得すべく開幕前の合同テストで好タイムを記録していましたが、あと一歩及ばず結局ミナルディからの参戦となりました。 第4戦のモナコGPでは6位入賞を果たすもののその後も目立った活躍はできず、この年にF1からの引退を発表。最終戦は1994年のオーストラリアGPとなった。結果は16位でした。その後はインディやル・マンへ活躍の場を移しています。

ミケーレ・アルボレートにまつわるエピソード

「フォルツァ・ミケーレ!」(ミケーレがんばれ!)

イタリア人のファンにとっては、イタリア人の運転するフェラーリが優勝することが何よりもの願いでした。そのためミケーレ・アルボレートの地元イタリアでグランプリが行われる際にはティフォシと呼ばれるフェラーリの熱狂的ファンが集結し「フォルツァ・ミケーレ」という絶叫にも近い声援が響き渡っていました。 ミケーレ・アルボレートこそが悲願を達成してくれるとそう信じていました。イタリア人にとって彼は英雄だったのです。

2代目フライング・ミラン

1984年のフェラーリでの活躍によりアルベルト・アスカリの再来とまで呼ばれるようになったミケーレ・アルボレート。アスカリと同じくミラノ出身でした。それにちなんで「フライング・ミラン」とニックネームを付けられました。 先行逃げ切り型で1度トップに立つとそのまま優勝のパターンが多かったのもアスカリと同じでした。皮肉なことにテスト走行中の事故死という最期の遂げ方も同じです。ティフォシ達には本当にアスカリが目の前にいるように映っていたのかもしれません。

F1をもっと楽しもう

日本でのF1ブームは90年代がピークだったかもしれません。しかし今もF1の歴史は続いています。新たな名ドライバーが生まれ、新たな名マシンが登場している。その度にファンの胸に刻まれていきます。リアルタイムなことはその場で感じ、その場で経験できます。 過去のことはどうしても経験できません。疑似経験をさせてくれるのが記録です。現在を存分に楽しむことも一つの楽しみ方。そこを入り口に過去を経験したくなったら記録を遡って調べてみてください。楽しみ方はさまざまですが、もし興味を持ったのならば調べてみることをおすすめします。 この記事の中にも初耳なことがあったならそれについて詳しく調べてみてほしい。現在が過去の上に成り立っていることを強く実感できることでしょう。

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